2021/12/3金曜サロンスペシャル 「海外よもやま話」

 話し手の原さんは、今から約50年前にヨーロッパに出張し、その後も幾度となく海外赴任や出張を経験されました。原さんが最初に海外出張されてから、今までに歴訪された国は実に31か国を数えます。
 原さんは、主にビジネスでの新規事業の立ち上げなどを手掛けてきましたが、今回は海外生活の中で経験されたエピソードや失敗談、海外の魅力や楽しみ方などについて語っていただきました。
 市内の各方面に人脈のある原さんの講演会とあって、開始前から多くの皆さんが続々と集まり、最近の金曜サロンスペシャルとしては異例とも言うべき、会場がほぼ満席に近い状態での開始となりました。

 

【母との思い出-言葉遊びの俳句作り】

 原さんの海外でのお話に入る前に、生い立ちから今に至るまで原さんの自分史をお話いただきました。
 原さんは昭和19年に満州の新京(現在の長春)で生まれました。生後2週間後にお父様がフィリピンに出征して戦死されました。
 お母様は東京に単身赴任をして家計を支えていたため、原さんはご祖父母に育てられていました。
 原さんが小学2年生の時にご祖母様と一緒に一度だけお母様に会いに東京に行った時、言葉遊びで原さんとご祖母様とお母様の3人で俳句を作ったそうです。上の句「赤々と」を原さん、中の句「朝日が昇る」をご祖母様、そして下の句「身の疲れ」をお母様が作られました。
「身の疲れ」は当時、働き詰めで心底疲れきっていたお母様の嘘偽りない気持ちを詠んだのではないかと原さんはおっしゃっていました。
「赤々と朝日が昇る身の疲れ」この句を詠んだ半年後にお母様は病死されました。当時小学二年生だった原さんですが、数少ないお母様との思い出として、今でもこの句をはっきり覚えているそうです。

【大学時代の思い出】

 幼い頃にご両親を亡くされてからの原さんは、ご祖父母からの愛情をたっぷり注がれて育てられました。大学は東京で下宿生活をされていました。大学3年の時、経済学部のゼミで商品学の谷山先生のゼミを申し込みましたが、そのゼミはとても人気があって競争率が高かったため、原さんも半分諦めていました。試験が始まって30分くらいで答案を誰よりも早く一番先に提出した原さんは何とその難関のゼミに合格していました。何かの間違いだと思って先生に確認したところ、「私は、毎年、点数が良いとか悪いとかではなく、最初に答案を出してくる生徒をとることにしている。」と言われ、見事ゼミに入ることができました。

【勘違いが功を奏した就職対策本】

 原さんは、大学卒業時に会社の就職試験に備えて勉強をしていましたが、間違えて1年前の就職対策本を購入してしまったそうです。その本に載っていた英語の難問を丸暗記したら、その問題がそのまま試験に出て、英語は満点だったそうです。そして無事に希望していた会社に就職することができたそうです。

【営業部から貿易部へ】

 原さんは、大学卒業と同時に電卓や小型コンピュータメーカーでもあり、販売も手掛ける会社に就職しました。当時の直属の部長の勧めで、「これからのビジネスマンは英語を勉強しなさい」と言われ、英会話学校に通い始めました。それまでは雀荘や飲み屋の看板しか目に入らなかった原さんでしたが、その当時は街を歩いていても英会話の学校の看板ばかりが気になるようになりました。「意識が変わると自分の見る景色も変わる」ということがよくわかったそうです。原さんのそんな噂が会社上層部の耳に入り、入社3年目で営業部から貿易部に栄転し、ヨーロッパ担当の輸出営業職となりました。

【クイックレスポンス】

 最初、課長の下について貿易関係の仕事をしていた原さんでしたが、その課長が急に故郷の九州に帰郷することになり、一人で仕事をすることになりました。ところが英語もろくに出来なかった原さんは、「英語があまりできなくても仕事はスピード重視で、その日の問い合わせがきたものはその日に返すようにしよう」と決めて、毎日それを繰り返して実践していたところ、取引先から「原という職員はクイックレスポンスが良い」という評判が立ち始め、次第に業績も伸ばしていきました。26歳の時、部長から呼ばれ、ヨーロッパに一人で行くように言われて、それが最初のヨーロッパ出張になりました。

【初めての退職と転職―かっこいい仕事から泥臭い仕事へ】

 1973年、原さんが28歳の時、ご祖父様が病気で倒れたという報が入った為、会社を辞めてご祖父母の面倒をみる為、郷里である熱海に帰りました。
 その時は、もう二度と海外や貿易の仕事とは縁がないだろうと思っていたそうです。そんな時、熱海のスーパー「ヤオハン」に勤めている同級生から、「うちの会社に来ないか?」と誘われ、入社希望を出したところ、面接も試験もしていないのに合格通知が届いたそうです。
こうして原さんは、それまでの貿易関係のかっこいい仕事から、地元のスーパーで食品を終日売るという泥臭い仕事に変わることになりました。

【USA勤務】

 2年の店舗勤務が終わった頃、原さんは常務から呼び出され、貿易経験のある者がプロパー職員の中にいないので、ヤオハンの海外店舗向けに、新しく作る「商事会社」に行くよう説得を受けます。その1年後に今度は、1年間の予定でアメリカに行ってくれと言われました。目的はヤオハンのアメリカにおける拠点づくりと商品の卸売りでした。祖父母の面倒をみることで以前の会社を辞めたので、当然のごとく固辞されたそうです。しかし、会社側の強い要請により、1年間だけという条件でアメリカに赴任することになりました。その頃、既にご祖父様は他界し、ご祖母様お一人が日本に残ったそうです。しかし、1年が過ぎても帰ってこない孫を心配して、早く帰ってくるようにと手紙が来たそうです。原さんは会社の担当役員に早く日本に帰してくれるよう手紙を書いたそうです。会社でそのことを協議した結果、会社側がご祖母様をアメリカに赴任させることになり、初めて家族全員が一堂に揃い、アメリカでの勤務を無事に終えることができました。 

【シンガポール勤務】

 1989年8月、原さんはシンガポールに赴任されました。「国際卸売りセンター(通称IMM)」というヤオハンとシンガポール政府の合弁会社の設立にご尽力されました。17万㎡もある敷地に巨大なビルを建てテナントを入れるという一大プロジェクトでした。
 ここでは、テナントがなかなか入らずに大変な状況でしたが、原さんは毎日このビルの中を30分間一人で歩いて、どうしたらテナントを埋めることができるか、いろいろ考えました。そしてある時、このビルにはお客さんを呼ぶためのコンセプトが足りないということに気づきました。すぐに社長に直訴し、各フロアのコンセプトを明確にすることで、それまでがらんどうだったテナントのスペースを420ものお店で満杯にすることに成功しました。まさに原さんが会社の危機を救ったと言っても過言ではないでしょう。  
 しかし、その後、ヤオハンは拡大経営のツケが回って1998年に会社更生法を申請し、倒産の憂き目を見ることになりました。

 

【まとめ】 

 原さんは、ご自身の著書である「新戦力!働こう年金族」の中で、「私の履歴書」と題し、その半生を振り返っていらっしゃいます。
 著書をお見受けする限り、幼い頃にご両親と死別されるなど、おそらく大変なご苦労もたくさんされてきたに違いないと思います。しかし、大学を卒業されてからの原さんの社会人としてのご活躍は、海外赴任によって大きなビジネスチャンスをつかむなど、目覚ましいものがありました。当時の高度成長期における働き盛りのサラリーマン達にとって、原さんのように海外でお仕事をする人に対しては、憧れにも似た羨望の眼差しが多く注がれたのではないでしょうか。
 そこに至る背景には、原さんご自身の努力や類い稀なるビジネスの才能、才覚という要素があったことは間違いないと思います。しかし、それとは別に原さんの持っていらっしゃる「運」というものによるところも大きいのではないかと感じています。あまりこの言葉だけで片づけてしまうのはご本人に対して失礼に当たるかもしれませんが、原さんの人生の分岐点とも言うべき節目、節目には、その「強運」というものがどうしても見え隠れしてしまうのです。
 たとえば、大学のゼミの答案を一番先に提出したことで難関のゼミに入れたこと、最初に就職したB社の入社試験では、その対策本として1年前の本を間違えて購入したにもかかわらず、英語の難題を丸暗記した箇所がそのまま出題されたり、ヤオハン入社後にすぐ貿易担当のスタッフにされたり、その経験を買われ、アメリカの拠点づくりに、いち早く原さんに白羽の矢が立ちました。更には、その後のシンガポールの国際卸売センター設立のプロジェクトの中心人物として抜擢されたり、何か違った力にあと押しされてきた人生とでも言うべきなのでしょうか。世間では「運も実力のうち」という言葉をよく使いますが、まさに原さんの半生を見ているとその言葉も至極納得できるのです。
 もちろん、ヤオハンでの原さんは全てが順風満帆であったかというと決してそうではなく、株式の一部上場と共に本社が経営を拡大しすぎたことによる倒産という悲劇も味わうことになり、いわばヤオハンの栄枯盛衰を同じ職場で経験することになりました。
 しかし、ただでは転ばないところが原さんらしいところで、普通は倒産というと傷心の帰国となるところですが、帰国時には既に次のステージを見据え、和雑貨専門の会社をすぐさま立ち上げています。
 原さんのちょっとやそっとではへこたれない精神力については、事務局として同じ会議に出席させていただいていてそれを感じることが間々あります。
 原さんは人の意見をあまり聞かず、頑固で融通が利かない一面がありますが、それも海外生活が長かった故に、自己主張が強くなければ海外ではやっていけなかったからなのかもしれません。
 最後に原さんにゆかりのある方々と記念写真を撮りましたが、ご覧のとおり満面の笑顔になっていました。
 原さんの自分史、そしてヨーロッパの歴史と文化、その生活の中の数々のエピソードをちりばめたお話は大変興味深く、聞いている皆さんもいつの間にか原ワールドに引き込まれていました。
 ともかく、原さんは、自分の話に人を惹きつけるコツやドッと会場を沸かせるツボを心得ていらっしゃる方であると感じました。

 このブログの中では原さんのお話の一つひとつをご紹介は出来ませんが、ご興味のある方はYouTubeの「市民活動サポートセンターいなぎ金曜サロンスペシャル」で検索してみてください。(できたらチャンネル登録もよろしくお願いします。) (Y.OGAWA)


【原忠男さんプロフィール】

1944年  満州の新京(現・長春)にて誕生

 同年   父親が戦死。母親と共に日本に引き上げ、熱海に移住。母親は仕事をするため東京

に単身移住。祖父母に育てられる。

1953年  小学校3年生の時、母親が病死

1968年  大学卒業と同時に電卓や小型コンピュータメーカー兼販売を手掛け

る会社に就職。当初は営業職。英会話学校に通い始める。入社3年目で貿易部に異動となり、ヨーロッパ担当となる

1972年   祖父が倒れたため、やむなく会社を辞めて熱海に急遽帰郷

1973年  友人の紹介でスーパーヤオハンに入社。スーパーの食品売り場で終

日働く。2年間熱海店に勤務

1975年  ヤオハンの100%子会社で貿易関連のW社に出向 結婚

1976年  アメリカ現法、ロスアンゼルス赴任。貿易と店舗の拠点つくり。

1978年  ヤオハンとして初めての日系スーパーが7名の日本人スタッフによってフレスノ市に誕生する

1989年  シンガポール勤務。国際卸売りセンター(MMI)の設立に尽力。

1997年  ヤオハンが会社更生法申請

1998年  日本に帰国。この赴任中にヤオハンの株式上場と倒産を両方経験する。

 同年、和雑貨専門会社I社を立ち上げる。「創業塾」を開始

 その後、原さんは多くの会社の立ち上げに関わり、現在は稲城市内で起業や販売の相談を受ける日々。

現在 稲城市姉妹友好都市交流協会理事

   稲城市観光案内人


YouTube

金曜サロンスペシャルの様子はYouTubeにもアップしております。
ご興味がある方は、是非ご覧ください。