「いいえいなぎです」の創作等で有名なYOSSANは、広告、絵本、TV番組やCMイラスト、楽譜「NHKのうた」をはじめとしたお仕事に携わっておられ、今や「稲城市の著名人で思いつく人」としては必ず名前が挙げられる有名人です。絵とイラストの創作活動についてはよく知られていますが、それ以外には作詞、作曲をはじめとした音楽活動にも精力的に活動されるなど、その多才ぶりをいかんなく発揮しています。
今回は、一児の母として、そして絵本作家、イラストレータ―として活躍されているYOSSANの今まで伝えてこなかった幼少期から現在に至るまでの変遷とこれからの活動についての抱負等について語っていただきました。
YOSSANの紹介
1 【ピアノとの出会い】
YOSSANは1980年、大阪府吹田市で生まれ、兵庫県明石市で育ちました。幼少期は大変おとなしく、小学校の隣の席の子にも声をかけられないほど内気な子でした。音楽との出会いは6歳の時にピアノを習い始めたことがきっかけでした。
当時、音楽の授業は、裏庭の芝生で寝転がりながら担任の先生のギターと共に歌い自由に過ごしました。この芝生体験は今の音楽活動にもリンクしているそうです。小学校の時、プロのピアニストにもなりたいとピアノの先生に言ってたようで、当時からピアノを弾く時に情景を思い浮かべる練習もしており、そのことが現在の絵の制作にもつながっているそうです。
2【中学校卒業式でのピアノ演奏】
15歳の時、友だちからもらった詩に初めて作曲をしました。そして中学校の卒業式では生徒代表として「大地讃頌」を演奏しましたが、当時ハンドボール部で鍛えていたYOSSANのピアノの弾き方がとてもダイナミックだということで音楽の先生の提案で、生徒と保護者の間にピアノを設置し、その演奏は録音してCDとして配布されました。
3【絵を描き始めた頃】
一方、本業である絵の才能も早い時期に開花し、幼稚園の時、絵の作品で受賞して銀行に掲示され、その後もYOSSANの作品は頻繁に幼稚園、小学校の廊下に掲示してもらっていました。この頃から、絵本作家さんとお手紙を交換したり、お話会に行ったりと当時から絵本作家さんと出会う機会がとても多かったそうです。また、住んでいた明石は港町である神戸にも近かったので、色彩、デザインの刺激、影響を沢山受けたそうです。
4【小・中・高校生時代】
小学校では自由帳に沢山絵を描いて、次第に周りの友達からも絵を通して声をかけてもらえるようになり、YOSSANも少しずつ周囲に心を開いて社交的になっていきました。この頃は自由帳にマンガを数冊書いていたそうです。
そして、15歳の時に授業の中で自分の将来の夢を発表する機会があり、その時には既に将来は絵描きになり、25歳で個展をすることをクラスメイトの前で公言していたそうです。
翌年からはピアノのレッスンをやめて絵1本にしぼり、高校に通いながら絵の塾でデッサン、イメージ画に明け暮れる日々を送っていました。
5【大学とミラノ留学】
YOSSANはその後、大阪芸術大学に入学し、2年後にはイタリアに短期留学をすることになります。ミラノでクロッキーやデザインの勉強をし、また、アレッシィーのデザイナーからのお話やミラノのデザイン会社では、斬新なデザインの方法をいろいろ教えてもらい、イタリアで多くの刺激を受けたこの時期からYOSSANの画風もそれまでのものと大きく変わることになりました。
帰国後、大阪にある「ゆめいろミュージアム」に友達を誘い、初めてグループ展を行いました。また、大学在学中には絵本についても学びました。
6【大学での音楽活動】
YOSSANは大阪芸術大学ではジャズ研究会に入部し、7つバンドをかけ持っていました。高校まではクラシックのピアノをやっていましたが、コードもジャズも知らない状態で入ったので、ジャズ特有のセッションやアドリブへの対応に困惑してしまい、これを機にコードについての勉強をしました。
それまで楽譜通りの演奏しか知らなかったのでジャズ研究会に入ってからはアドリブを覚え、フュージョン、ポップス、ファンク、こどもの歌等幅広いジャンルのバンドを経験したことは、その後の音楽活動の幅を広げるきっかけになりました。
7【就職と個人の活動】
YOSSANは大学を卒業し、食品関係のデザイン会社に入社します。そこで6年半勤務しましたが、デザインがうまくできずに大変苦労したそうです。
頻繁に百貨店や、スーパーなどの食品売り場でデザインを観察して、どのデザインが目立つか、お客さんがどんなデザインを手に取りたくなるかを必死に考える日々が続いたそうです。
そして、デザイナーの傍ら、絵本作家、イラストレーターになるために個人での活動を始めました。
2004年24歳の時、初の個展である「YOSSANWORLD展」を開き、この時から作家名も正式に「YOSSAN」と名乗り始めました。
翌年には三江ギャラリーで「くるみわり人形展」を開催し、大学時代に作ったくるみわり人形の絵本の原画を展示するとともに、チャイコフスキーのくるみわり人形の曲を実際に演奏するという催しを行いました。
またギャラリーVIEでは「自転車にのってどこまでも」という個展を開催しました。
この頃、個展に加え、グループ展、企画展に頻繁に出展していました。
また、当時「大人の美術部」という会に所属し、絵以外にも様々な作品を作っていました。
8【独立と結婚】
社会人として仕事をしながら絵を描き、休日に個展を開くという超ハードスケジュールを続けていたYOSSANですが、2009年に会社を退社、滋賀県へ移住して2010年に独立、原画展等を開催するほか、原画や雑貨の販売等行うようになりました。
2012年には自費出版の絵本「想いのとどくノートブック」を出版し、滋賀と京都で演奏会付きの個展を開催し、ラジオ出演をしたり、新聞、雑誌などに掲載されました。
2013年、東京の江古田のカフェで個展を行ったことをきっかけに、大学からの友人だったご主人と再会し、群馬県沼田市へ移住し、2014年に群馬県で結婚されました。
9【稲城市への移住】
2015年に転居先を考えていた際、いくつかの候補地の中から稲城が住みやすそうという情報と、予知絵と同じ風景だったという理由もあり、稲城市を移住先として選び、移住後に男のお子さんが誕生しました。
稲城市に移住してから約1年後、YOSSANは稲城長沼駅高架下の「くらすクラス」を始めるための会議「ひらくひらく会」に参加し、外部の人間として会議に関わることで、「いなぎ」をみんなでどうしたら楽しくなるか、どんなことをやりたいか考えるきっかけとなり、この経験を通してYOSSANは稲城について熱くなり始めたのだそうです。
10【仕事と音楽活動について】
一方、仕事の方でも2016年から出版社さんに持ち込みを開始し、おうた絵本の挿絵を担当したり、その後、グリム童話、イソップ童話挿絵、教科書の音楽の挿絵、デジタル絵本などの仕事につながっていきました。
2018年にはYOSSANは「いいえいなぎです」の絵を描き、SNSへの投稿をきっかけにいなぎ発信基地ペアテラスで展示会を開催し、新聞、雑誌などに掲載されるとともに、テレビ出演も果たすことになりました。
また、この頃「稲城×人」「稲城から世界へ発信」というキャッチフレーズの造語である「INAGINE」という名前もYOSSANが発案しました。
市の関係では図書館でのワークショップのお仕事でブックカバーやDVDカバーになる塗り絵を担当、他「いいえ中央図書館です」もみんなで描きました。2021年に稲城市長と種田様との新春鼎談が広報に掲載されました。
その他、2019年にはクリエイターエキスポ出店をきっかけに楽譜の表紙のお仕事が始まりました。
音楽活動では、2020年に明治時代の楽譜をもらって、これを手にすることで新たに作曲ができる感覚がやってきて、完成した曲が「まちのきせき」です。ここから中学校以来の作曲がはじまったそうです。
2020年11月から音楽活動を再開し、路上ライブやくらすクラスの「ふらっと♭音楽隊」への参加、南山ベースでミニライブなど、音楽活動にも精力的に参加しています。YOSSANはこれからも絵本やイラストの活動を中心に、音楽とも融合させて表現していくそうです。
【まとめ】
今、私の部屋にはYOSSANの作品である2022年のカレンダーが飾ってあります。時々、ボーっとしながらYOSSANの描いたカレンダーの絵を見ていると、何とも言えない暖かさを感じます。
YOSSANの絵が多くの人から支持を受けているのも、絵から伝わってくる何とも言えない暖かみなのではないでしょうか。それは、絵を描く手法や経験など、様々な要因によるところもあるのかもしれませんが、やはり何よりもご本人の本来持っているおおらかさやほんわかとした性格によるところが大きいのではないかと、今回の金曜サロンスペシャルの中で連絡、交渉をさせていただく中で強く感じました。
有名人であるのに決して偉ぶったりすることもなく、どんな質問に対しても常に真摯で謙虚な姿勢を持って、柔らかな答えをいただきました。
今回、講演の中でYOSSANの生い立ちなどをご紹介いただき、幼い頃から既に絵も音楽も才能を開花させていたことがよくわかりました。そして、とても内気で無口だった少女が、絵や音楽を通して周りの友達との交流の輪を広げていった話を聞き、やはり芸術というものは言葉を凌駕する力があるのだと改めて感じました。
また、YOSSANが中学生の頃に、「将来は絵描きになって個展を開く」と明言してそれを実現した話は、大谷翔平選手が「将来メジャーリーガーになって活躍する」と公言していたことを思い出し、目標にたどり着く人というのは、共通項として幼い頃から明確な人生のビジョンを持っている人なのだということも感じました。
今回のお話では、YOSSANが絵やイラストを描く活動と、音楽の活動がそれぞれ別々に語られていましたが、YOSSANにとってはこのどちらともが重要な要素であり、本業である絵やイラストを描く上でも、また、日常生活においても音楽は欠くことのできないカンフル剤のようなものであり、人生の中で音楽は決して切っても切れないものであるとのことです。お話の途中で「海路」という曲を披露してくださいましたが、これからのYOSSANの創作活動は絵やイラストにとどまらず、作詞、作曲をしたり、絵本に合わせた音楽の創作等、新たな分野でのチャレンジも考えているようです。稲城市が誇る才能あふれる旗手として、これからの活躍にも期待したいと思います。(Y.OGAWA)